「なぜ医学部を目指したのか」
ふと聞かれると、いつも答えに詰まってしまいます。
才能や成績がずば抜けていたわけではありません。むしろ、自分の弱さや恐れと向き合う日々でした。
でも、人生にはいくつかの“忘れられない瞬間”があって、そのたびに、僕の中で医療への想いが積み重なっていったのです。
今日はその“3つの悲しい出来事”と、高校時代の葛藤を通して、ようやく決断できた経緯を、正直に綴ります。
エピソード1:中学2年、24時間テレビで心を突かれたあの日
中学2年の夏。テレビで**24時間テレビ ドラマスペシャル『母さん、俺は大丈夫』**が放送されました。これは、急性脳腫瘍に倒れた高校生・諒平くんの実話に基づく感動ドラマで、見終わったとき、涙が止まりませんでした 。
まだ同じくらいの年頃です。同世代が病に倒れ、死と向き合う現実。
「なぜ治せないのか」
「どうして同じ年齢なのに、あの子だけが……」
胸が痛くてたまらず、親にも相談できない“どうしようもない気持ち”が湧き上がりました。
そこから僕は、「医療はどうしてこんなにも無力なのか」「自分に何ができるのか」と、小さな胸で問い続けるようになりました。
エピソード2:中学1年、祖母のくも膜下出血
実はこれは、ドラマの前の話。
中学1年の春、祖母がくも膜下出血で急逝しました。医療的には「対応が遅かった」という話をおばから聞いたとき、自分でもどうしようもない悲しさと悔しさでいっぱいになりました。
朝まで元気だったのに、翌日には倒れて入院、そして……。
「もっと早く対応できていたら」
その一瞬の判断が、人の命を左右することを、痛感しました。
幼いながらに、「医者ってやっぱり“神”じゃない。でも、絶対に必要な存在なんだ」と思うようになりました。
エピソード3:高校時代、部活の顧問の突然の死
そして高校1年。部活の顧問の先生が、大動脈解離で亡くなりました。まだ40代という若さで、突然の知らせに部員全員が言葉を失いました。
「こんなにも尊敬していた大人が、こんなに急に死んでしまうのか……」
悲しさ以上に、「人生って儚い」と実感し、同時に「いつか人を助けたい」という思いが胸に芽生えました。なんと当時の部員の7人中4人が医学部志望となりました。
進路の二択──医者 or パイロット?
こうした出来事を経ても、僕はそれまでまとまった“夢”を口にできませんでした。
ただ、中学の頃「勉強はできないわけではなかった」けど、進学校に行ける自信はありませんでした。
かといって、これといって憧れる職業もなく……。でも、確かに心の中には「何か人を支えるものになりたい」という願いがありました。
そんな中、パイロットへの憧れが浮かびます。
「空を飛ぶ」「責任ある仕事に携わる」──子どもの頃からの夢でした。
自分の中で、医者かパイロットか、ずっと迷っていました。
なぜ“医者”にしたのか?
高校1年の終わり、進路を考えながら思ったのは、パイロットの道は想像以上に厳しいという現実です。年齢制限。倍率の高さ。身体条件……
「夢」はあるけれど、現実の壁が高いことは否めませんでした。
その一方で、“医者”という職業には、努力次第でたどり着ける可能性があると気づきました。地道に知識を積み上げ、社会の役に立てる。その実感が、自分には確実で希望のあるルートに思えました。
そして、高校2年の終わり。僕は「受験勉強を通して医者になろう」と決心しました。
はじめは遅すぎたスタート。だけど、挑戦をやめなかった
覚えています。高2からのスタートは、周りからは遅すぎると言われました。
“医者を目指して小学生から専門に対策していた人たち”が相手です。圧倒的に遅れを取っている自覚がありました。
でも、僕に残っていたのは“諦めない性格”。
「やると決めたら最後までやる」
そう自分に誓い、高校2年から受験への準備を始めました。
自信はありませんでしたが、行動はできます。その小さな一歩が、後に医学部での生活へとつながっていくのです。
最後に:あなたに知ってほしいこと
「医学部を目指す理由」
それは、誰かの命に寄り添いたいという純粋な気持ち。
悲しみの経験が、知らず知らずのうちに僕をここまで導いてくれました。
才能はなくても、努力して積み上げていく。
夢は漠然としていても、心が動く経験があるならそれが種になる。
そして、どんなに辛くても、挑戦をやめなければ、道は開ける。
まだあなたの中に“医学”に対する熱が少しでも残っているなら、
その気持ちがきっと、あなたを未来へ導きます。
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